2010年5月20日木曜日

RIP SA

荒川|そこまで行ってるんならもう少し中へ入って行こう。僕がほんとに見つけだそうとしたのはいわゆる無名の春なんだ。(…)だから言葉は絶対に介入できない。で、匂いもないわけ。それからノスタルジーも起こらない。その中へ入っても。その春はもう春らしくもない。だけど、その春こそがすべてに誰にでも共通するだろう。死ぬこととか生きていることというのは、いま言った無名の春ということじゃないかな……。

(…)

荒川 |(…)「パーセプテュアル・ランディング・サイト」では、右手を見て、その後左手を見ると、右手が何であったか、左手を見ながら感じ取りますね。あの条件をあれでつくってみたんですよ。あの八角形の部屋のような構築物は、その原理を借りて、言葉は悪いんですけど器か冷蔵庫のようなところへその感覚自体を閉じ込めておくことができないか。もちろん一時的に……。いろんな人が共有することはできないのか。それが可能だとしたら……。いずれ地球は爆発して僕たちのギャラクシーがなくなったとしても、またこのような状態が起きてきたときには恐らくこれと同じような状況で、まったく人間とはほど遠い状況でも、もう一つの生というものが芽生えるだろう。それがあなたがさっき言った春というような言葉で出てきたり、いろんなもので、そういう一つのカテゴリーで出てくるときに、その中に桜があってもいいしなくてもいいし。状態は変わってきますけどね。

小林|僕もその冷蔵庫、あると思うんですけど、僕はそれを「春」と言うんですよね。つまり……荒川さんと僕との違いですけれど……無理をして冷蔵庫をつくって感覚を閉じ込めておかなくてもそれは保存されている。そのことを名付けて「春」って言うんです。回帰してそれぞれ全部違う春ですけど、春というのは僕にいわせりゃ冷蔵庫の扉(ドア)が開くわけですよね。

荒川|初めから開きっぱなしですよ。

小林|で、その匂いとか春の暖かさとか香りとかが一挙にパーッと冷蔵庫から出てくる状態を僕は春と言うんで……。

荒川|僕のいう冷蔵庫、それ自体が春です。僕があなたの言われてる春にならなくちゃいけないんだ!!

小林|荒川さんのは冷凍庫じゃないんですか。開けるとコチンとして(笑)。

荒川|いまのところ、あなたの言ったようにコチンとしてほしんですよ。カチカチで、冷凍庫のほうなんです。しかも縮小されて。お湯をわかしといて何か一つポンと入れると、チキンのスープになるのがあるでしょう。

小林|クノールとか……。

荒川|僕の場合あれですよ。入れといてほっといたら、いずれ蒸発して全部なくなる。そうなってもいい。そうなることはもうわかっている。それを永遠に残したいなんて言ったら大変ですけど、いずれ向こうからやってくる。もうわき上がってきてるような自然というやつにむちゃくちゃにされちゃうことは最初からわかってますけどね。だけど、その秩序だけは一度明確にしておかないと。それから、そのプロセスも……。僕はいま、つくりたいものだけつくっただけじゃ駄目なんですよ。その新しい使用の仕方をみんなで訓練したいんです。訓練している間に、ひょっとしたら──、相当の所はいわゆる与えられた自然の中に見つけだすことができると思うんです。その中に入っていく。春は何度でもやってきて……。

(荒川修作・小林康夫「春についての対話」、『ルプレザンタシオン』3号、1992年4月、筑摩書房、21─22頁)