2010年2月26日金曜日

田崎英明:ランシエール『不和あるいは了解なき了解』書評

ジャック・ランシエール著『不和あるいは了解なき了解』重版にちなみ、著者の許諾のもとに、以下の書評を掲載いたします。ランシエールへの導入として最良のテキストだと思われます。同書初刷刊行のさいに出た書評のひとつです。6000字。いまはむかし『未来』誌がアナーキーだった頃のおはなし。

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無を数える、言葉を所有する──政治の条件
[書評]ランシエール『不和あるいは了解なき了解』

田崎英明


[『未来』2005年7月号、32-36頁]


本書の原著は一九九五年に出ている。つまり、ソ連・東欧の社会主義の解体を「民主主義の勝利」として称揚する者たちに向かって事態はその正反対であることを、「政治とは何か」「民主主義とは何か」ということの根源まで遡って論じようとしたのである。そして、この十年間に、「民主主義」をめぐる状況はますます酷くなるばかりだ。「民主主義の輸出」なる口実のもとでさまざまな殺戮が繰り広げられている。「掃討作戦」を通して築かれる「民主主義」とはいったいどのような代物なのだろう。このような現在において、本書の必要性はますます高まっているといえよう。待たれていた翻訳である。

本書の著者ジャック・ランシエールは、若くしてアルチュセールのもとで『資本論を読む』に著者として参加したが、六八年五月の出来事に際して、共産党にとどまったアルチュセールを批判、七四年には『アルチュセールの教え』と題する書を出版した。そこでの批判点のひとつは、アルチュセールがそのイデオロギー装置論まで含めても、不十分な主体の理論しかもっていないこと、とりわけ、主体についてのポジティヴな理論をもっていないことであった。これはランシエールと同じく、というか、むしろ彼以上に激烈なマオ派だったアラン・バディウが八〇年代に『主体の理論』で展開する議論にも共通している。革命的主体の問題をバディウはラカンによって解こうとしたのだが、それに対して、ランシエールは十九世紀の労働者たちのアーカイヴに向かう。

ランシエールは『論理的叛乱』(このタイトルはランボーの詩に由来するという)という雑誌を創刊する。そこでは十九世紀の労働運動や民衆の芸術がテーマとなる。十九世紀の労働者の歴史の一種の読み直しなのだが、ランシエールたちの視線はあくまで哲学者のそれである。つまり、無名の労働者の残したパンフレットやビラをプラトンやヘーゲルを読むように、テクストとして扱うのである。それは、のちに(九〇年代に)アラン・ド=リベラが、ル=ゴフの社会史に対抗して中世知識人についての哲学的歴史を書いたのと同様に、もちろんそれに先駆けて、ランシエールたちを社会史ないし社会学的歴史に対立させることになる。ランシエールの理解するところによれば、社会史には語る存在に対する抜きがたい不信がある。ブローデルの時系列分析はそのひとつの典型であるが、そればかりではない。むしろ、彼が批判の対象としてよく取り上げるのはリュシアン・フェーヴルのラブレー論である。「ラブレーは無神論者であったか」という問いに、フェーヴルは「それは不可能である」と答える。事実への問いに対して、(不)可能性によって応えるのである。言説という出来事が、その生産と流通の可能性の条件へと解消され、雲散霧消してしまう。社会史において、語る存在は、一種の見せかけ=現われとして扱われ、自分が何者で、本当は何をいっているのか理解していない、自分自身の実体からは、ずれた存在と見做される。歴史記述が科学になれるのは、あたかも他者の言葉に耳を貸すのを拒むかぎりにおいてであるかのようだ。だが、自分が何をいっているのかを理解していない存在、言葉に似た音声を発することは認められても言葉の所有は承認されない存在、それはアリストテレスによる奴隷の定義そのものではないか。さらにいえば、十九世紀において、哲学や詩作に費やす自由時間を獲得するために賃上げを要求した職人たちに向かって、分を弁えろ、お前たちは働く存在でしかないのであって語る存在ではないのだ、言葉と労働は両立しないのだ、と説く親方たちもまた、同じことをしていたのではないか。

語る存在はいつもその身元(アイデンティティ、所有関係や社会的分業のなかで占めるポジション、職業)とは一致しない。このずれを解消しようとするのではなく、むしろ、政治にとって構成的なものと考えること。それは階級闘争をその歴史のなかに位置づけ直し、改めて政治的共同体の根本に据えることである。一方では、他人に耳を傾けてもらえるような言葉を所有しているのは、すでに財産を所有している者、つまり、共同体の内部に分け前=持ち分 part をもつ者だけであるとする者たちがおり、他方には、自分たちも言葉を話す以上すでに共同体に対して分け前=持ち分をもっているはずだと主張する者たちがいる。一方は他方に対して「お前たちの発しているのは言葉ではない」といい、反対は、「自分たちはあなた方と同じように話しているし、あなた方と同じ言葉を用いて平等な扱いを要求していることそれ自体が、私たちがあなた方と平等であることを証明している」という。ここにあるのは、ある種の遂行的矛盾であり、また、同じ場面をめぐり、同じ言葉を使いながら異なる解釈の争いである。快と苦痛を表わす声ならば多くの動物がもっているが、言葉は人間だけがもっている。そして、言葉によって人間は有用性と有害性、さらには正義と不正を表明し、ひいては善悪を知覚する。アリストテレスの『政治学』のほとんど冒頭に出てくる、なぜ人間はポリス polis 的なのかを説明したくだりで問題となっている声と言葉の差異が十九世紀の労働運動においても賭けられているものだったのだ。

ランシエールの主著のひとつと目されるべき本書『不和』は、彼が七〇年代から八〇年代にかけて、十九世紀を舞台として探求してきた平等と自由の問題を、古典古代の政治哲学の誕生の場面にまで遡って、そもそも政治とは何かを論じたものである。十九世紀の階級闘争の発話の場面、その行き違いを「不和」(誤解、計算違いの意味ももつ)と名づけて主題的な分析を行ったのが本書なのである。

ランシエールによれば政治の創設はある根源的な間違い tort、計算違いに基づいている。まず彼は、アリストテレスが『政治学』で語った「有用性」と「有害性」が、ギリシャ語では実は対になった語ではなく、そこに一種の共約不可能性が紛れ込んでいることを指摘する。有用性は他者なしに規定される。私にとって有用なものが、即、他者にとって損害であるわけではない。ところが、有害性は誰かが他人に対して与えた害 tort を意味している。したがって、ランシエールによれば、アリストテレス自身が『ニコマコス倫理学』で与えているその反対語は、「他者からの援助」である。このような、他者との商品の交換比率をどうするかとか他者に与えた損害をどう補償するかという尺度に関する算術的な秩序、つまり、算術的な平等は、まだ政治的ではない。政治的であるのは、つまり、政治的共同体の創設にかかわるのは、共同体における自分の分け前=持ち分 part に応じて受け取るという幾何学的平等である。だが、このような政治理論は、そもそもの政治の創設にかかわる闘争、つまり何を共同体における分け前=持ち分と数えるべきか、誰を当事者 partie と数えるべきか、という不可避に数え間違えるしかない計算への応答なのである。

アリストテレスは、政治的共同体を構成する分け前とその当事者として、少数者と彼らの所有する富裕な財産(少数者の支配=寡頭制 oligarchie)、最善の者と彼らが所有する徳(貴族制 aristocratie)、民衆と彼らが所有する自由(民主制 democratie)を挙げる。問題は自由は誰でもがもっている点だ。というよりも、何ももっていない者が所有しているのが自由なのである。それは分け前なき者の分け前 part des sans-parts、あるいは、共同体に持ち分をもたない部分である。しかも、その持ち分は誰のものでもあり、したがって、当事者は誰でもありうる。つまり、全体である。しかし、実際には、民衆とは、何も所有しない貧しい者たちであって、部分に過ぎない。民衆は無にして存在、部分であり同時に全体であるようなものなのだ。それは自分自身との同一性、アイデンティティを欠いている。無を存在と、部分を全体と数え間違えることなしに、政治的共同体は存在しない。なぜなら誰が当事者であるのかを事前に数え上げることはできないからだ。(この点で、ランシエール同様、遂行的矛盾に注目しつつ語る存在の平等を打ち立てようとするハーバーマスと対立することになる。というのもハーバーマスは、結局のところ、係争に先立って事前に当事者を数え上げられるように普遍的語用論を確立しようとするのだから。)

政治的共同体と哲学は起源を同じくしている。それは、音声しか発しない存在ではなく「語る存在」であるのは誰かをめぐる係争、つまり、感性と言語とのこの「不和」の状況から、どちらも生まれたからである。したがって、哲学はそもそものはじめから政治的である。しかし、これは哲学がつねに政治哲学であるべきであるということではない。というよりも、哲学と政治哲学とは一種の敵対関係にあるというべきなのだ。なぜなら、政治哲学は、ランシエールが政治 la politique と対立させるポリス la police に関わるからだ。政治は平等を実現するプロセスであるが、反対に、ポリス(フーコーの読者にはドイツ語風にポリツァイ、また、カルチュラル・スタディーズに馴染みのある者には英語風にポリシングといった方が通りがいいかもしれない)は統治のプロセスであり、ひとをそのアイデンティティから逸脱しないように取り締まる(ちなみに、ランシエールは政治とポリスの遭遇、そのせめぎあいを政治的なもの le politique と呼ぶ)。政治哲学は実のところ政治的ではなくポリス的なのだ。ポリスはランシエールが「感性的なものの分割=共有」と呼ぶもの、とりわけ、経験の中での身体の配分の体制を維持しようとする。それに対して、ポリス秩序の枠内では解決できない間違い=害 tort をめぐる係争が政治を可能にする。政治とは、いままで見えていなかったものを見えるようにし、音でしかなかったものを言葉として理解するような新たな主体化と感性的なものにおける身体の新しい配分をもたらし、呻き声や軋む音でなく、不正について語る言葉を話す「当事者」がそこにいたのだと明らかにすることなのである。

富める者と貧しい者の闘争について語ったのはほかでもない古代と近代の社会であり、しかも貧民と民衆の不一致の一致を否定するために語ったのだ。それゆえ、ランシエールは、古代および近代の政治哲学を三つのタイプに分ける。いずれも、民衆を特徴づける自分自身との不一致(それは伝統的に見せかけ=現象、さらには仮象とされた)を解消することを目指すものである。まずプラトンをモデルとするアルシ‐ポリティークである。これは個人の性格を集団の習俗と教育によって一致させることを通して共同体をそれに先立つ原理(アルケー)の感性化としようとする。次に、アリストテレスをモデルとし、近代になってからは社会契約と主権の理論として展開したパラ‐ポリティークは、逆に個人をばらばらにすることによって民主主義のシミュラークルを作り上げ、民主主義そのものを可能にする階級闘争を消し去ろうとする。つまり、万人の万人に対する闘争によって、集団としての当事者 partie を不可能にしようというのだ。近代政治哲学における権利の概念は、そのような個人を生み出す仕掛けである。そして、最後にマルクスのメタ‐ポリティークである。パラ‐ポリティークが、民主主義を可能にする見せかけ(それが公共領域というものだ)を民主主義の見せかけ(シミュラークル)に置き換えるのに対し、メタ‐ポリティークは見せかけとしての民主主義そのものを廃棄しようとする。民主主義を見せかけ、虚偽として告発する点では、メタ‐ポリティークはアルシ‐ポリティークと共通している。だが、メタ‐ポリティークはアルシ‐ポリティークと違って階級闘争を重視する。ただしそれを政治の真理として認めるのではなくて、社会それ自身が虚偽に陥っているという、社会の分裂という真理の徴として認めるのである。メタ‐ポリティークは政治を実現することによって政治を終焉させ、政治のいらない社会を作ろうとする。さらに、ランシエールは、ソ連社会主義が崩壊した後の世界は、民主主義の勝利でも、政治的なものの回帰でもなく、むしろ、メタ‐ポリティークの勝利、政治的なものの終焉であるという。「民主主義あるいはコンセンサス」(これはもちろん「社会主義か野蛮か」というローザ・ルクセンブルクの言葉へのアリュージョンである)と題された章では、世論とシミュレーションに基づく社会が見せかけにいかなる余地も残さないことが論じられる。スピルバーグの『マイノリティ・リポート』を見れば分かるように、予知=完全なシミュレーションの社会では私が自分自身と一致しないこと、つまり、予知された犯罪を犯さないことは許されないし、監視カメラと予知能力者がすべてを映し出し、また、それが世界のすべてであって、それと一致しないイメージは存在しないことにされる。見ていなかったものを見る必要はない。感性的なものの再配分は必要ない。すべては完璧に統治されている。ランシエールがつねに闘っているのは、このような政治の終焉に対してなのである。

ところでランシエールのこのような係争をめぐる議論は、ジャン=フランソワ・リオタールの「争異」を思い起こさせるかもしれない。だが、ランシエールは「感性的なもの」の再配分を問題にしている点が重要である。リオタールが、感性的な痕跡をまったく残していない絶対的犠牲者として「アウシュヴィッツ」を一種神秘化してしまうのに対して、ランシエールは、むしろそのような神秘化がないからこそ、ガス室の存在を否定する歴史修正主義と闘えるのだ。リオタールやランズマン監督の『ショアー』が示す「表象不可能性」の倫理‐美学に対するものとして、たとえば、今日であれば、アトム・エゴヤン監督の『アララトの聖母』を考えることができる。いまは詳しく展開する余裕がないが、第一次大戦におけるオスマン帝国によるアルメニア人の大虐殺(トルコ政府は公式にはそのような出来事の存在を認めていない)をかろうじて生き延び、移民していった難民の子孫たちがこの大虐殺を映画化するというストーリーをもつこの『アララト』という映画を、ランシエールのいう「感性的なものの再配分」として読み解いていけるだろう。そこから私たちは、ランシエールの思考のアクチュアリティを、さらには今日のディジタル化されたシミュレーション・テクノロジーに包囲された身体である私たちにとっての政治の可能性を改めて掴み取ることができるに違いない。