2010年2月27日土曜日

『ヒロシマモナムール』上映、本日より@渋谷イメージフォーラム


本日(2010年2月27日)より、渋谷の映画館、シアター・イメージフォーラムにて、アラン・レネ監督作品『ヒロシマモナムール(二十四時間の情事)』が上映されております。同じレネの『去年マリエンバートで』との同時上映。後者は、紀伊國屋書店の第2回配給作品。第1回がスコリモフスキで、次がレネ/ロブ=グリエと来たら、その次はなんでしょう? それはともかく、イメフォ受付にて小社の『HIROSHIMA 1958』『愛の小さな歴史』も販売しております。ご鑑賞にあわせてお求めいただければ幸甚。イメフォでの上映は3月18日までの3週間。

「アラン・レネ全作上映」のチラシというかパンフレット(計8頁)も入手。『ヒロシマモナムール』の作品解説には『HIROSHIMA 1958』所収のデュラス宛レネ書簡を引用いただいております。こちらは、ユーロスペース東京日仏学院にて、3月20日〜4月18日。それぞれのサイトに上映スケジュールが掲載されています。

2010年2月26日金曜日

田崎英明:人文科学洋書15選

『不和あるいは了解なき了解』書評掲載にちなみ、著者の許諾のもとに、以下のブックガイドを掲載します。田崎英明著『無能な者たちの共同体』(未来社)刊行記念のジュンク堂書店池袋本店4階でのトークイヴェント(十川幸司さんとの対談)のさいに、会場限定で配布された4頁のパンフレット。同店4階の人文書洋書の棚にあったものから15点を田崎さんがセレクトするという趣向。同書の担当編集者(つまり当時の私なわけですが)が編集・制作、2008年1月17日発行。パンフのタイトルは田崎さんによります。……当該書がまだ棚にあるかはわかりません、「ジュンク堂」をその後「Junk-U-Do」と呼ぶ人が続出したのかも知りません、あしからず。

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Junk-U-Doのための15冊
『無能な者たちの共同体』対談開催記念|人文科学洋書15選
[ジュンク堂書店池袋本店4階2008年1月版]

田崎英明=選

§1
Stanley Cavell, Conditions Handsome and Unhandsome: The Constitution of Emersonian Perfectionism, The University Of Chicago Press, 1991.(スタンリー・カヴェル『気前のよい/手わざの利いた条件とけちくさい/不器用な条件:エマソンの完成主義の構成』)
§2
Rupert Read and Jerry Goodenough (eds.), Film as Philosophy: Essays on Cinema after Wittgenstein and Cavell, Palgrave Macmillan, 2005.(ルパート・リード+ジェリー・ゴードノー編『哲学としてのフィルム:ウィトゲンシュタイン/カヴェル以後の映画をめぐる試論』)
§3
Simon Critchley, Very Little ... Almost Nothing: Death, Philosophy and Literature, Routledge, 1997; 2nd ed., 2004.(サイモン・クリッチリー『ほんの僅か……ほとんど何もない:死・哲学・文学』)
§4
Geoffrey G. Harpham, The Ascetic Imperative in Culture and Criticism, The University of Chicago Press, 1987.(ジェフリー・G・ハーファム『文化と批評における禁欲の命法』)
§5
Andrew Benjamin (ed.), Walter Benjamin and History, Continuum International Publishing Group, 2006.(アンドリュー・ベンジャミン編『ヴァルター・ベンヤミンと歴史』)
§6
Franz Rosenzweig, Ninety-Two Poems and Hymns of Yehuda Halevi, ed. & introduction by Richard A. Cohen, trans. by Thomas Kovach, Eva Jospe, and Gilya Gerda Schmidt, State University of New York Press, 1999.(フランツ・ローゼンツヴァイク『イェフダ・ハレヴィの92の詩と頌歌』)

以上は何らかの意味でカヴェルつながり。
カヴェルの映画論はドゥルーズの『シネマ』同様、世界への信頼をどう築き上げることができるかがひとつのテーマ。日常言語学派の日常性というのが、懐疑論による悲劇を回避し、かろうじて生き延びたサヴァイヴァーたちが作り上げた世界であるのか、ロマンチック・コメディ(シェイクスピアからハリウッドまで)の楽天性、陽気さがその背後にどれだけの深淵を秘めているのかをカヴェルはあきらかにする(まさにエマソンを引き継ぐアメリカ的哲学としてのハリウッド映画)。エマソンの完成主義も、個人の改心のような変化を、パフィットのように、人格の同一性の否定のために持ち出すのではなく、むしろ、そのような変化と時間性を包摂した個人の概念こそが民主主義の根本に据えられなければならないというもの(感覚‐運動図式の解体後の個人と世界の関係?)。パトナムはローゼンツヴァイク(すみませんここに挙げている本ではありません)への序文で、やはりパフィットを批判しローゼンツヴァイクの「常識の哲学」を称揚している(個人の同一性は名の同一性で十分である)。そして、そこでも参照されるのはカヴェルである。
カヴェルは後期ウィトゲンシュタインの文体を理性とそれを誘惑する声との対話篇であると指摘しているが、「西洋」の文化における誘惑のテーマについてはハーファムを参照。
「映画と哲学」のテーマではカヴェルとドゥルーズの名を挙げるのが(少なくともフランス語圏では)定番と化した感がある。それとカヴェル自身によるデリダへの言及はContesting Tears(『涙を競い合う/異議申し立てする涙』[The University of Chicago Press, 1996])を参照。今後の興味深いテーマはカヴェルとベンヤミンであるだろう(だといいな……くらいか)。

§7
Christopher Norris, Epistemology: Key Concepts in Philosophy, Continuum International Publishing Group, 2005.(クリストファー・ノリス『エピステモロジー:哲学のキーコンセプト』)

ジャック・デリダ、ポール・ド・マン、ヒラリー・パトナムに関するモノグラフの著者であるノリス(『ディコンストラクション』が日本語訳あり[勁草書房、1985年])は、哲学における「二つの伝統」(「分析哲学」と「大陸哲学」、これに関してはクリッチリーの『ヨーロッパ大陸の哲学』[岩波書店、2004年]も参照)を架橋することに力を注いでいる。デリダ派による反実在論や文化相対主義の批判。分析哲学の諸潮流と脱構築的な実在論への入門書。

§8
Joseph Schneider, Donna Haraway: Live Theory, Continuum International Publishing Group, 2005.(ジョゼフ・シュナイダー『ダナ・ハラウェイ:ライヴ・セオリー』)
§9
Paola Marrati, François Zourabichvili et Anne Sauvagnargues, La philosophie de Deleuze, Presses Universitaires de France, 2004.(【仏語】パオラ・マラッティ+フランソワ・ズーラビクヴィリ+アンヌ・ソーヴェナルグ『ドゥルーズの哲学』)
§10
Keith Ansell Pearson, How to Read Nietzsche, W. W. Norton, 2005.(キース・アンセル・ピアソン『ニーチェ入門』)
§11
Elizabeth Grosz, Space, Time, and Perversion: Essays on the Politics of Bodies, Routledge, 1995.(エリザベス・グロス『空間・時間・倒錯:身体の政治学をめぐる試論』)

これは動物つながり。
ハラウェイは日本語訳が皆無という訳でもないのに、その重要性に見合った注目を集めているとはいいがたいのはなぜだろうか。最近の彼女は動物と人間の共進化にも踏み込み(彼女とリン・マーギュリスのあいだには、おそらくはドリオン・せーガンの媒介にもよるのだろうが、交流がある)、その非人間=男性中心主義ぶりはますます磨きがかかっている。
最近動物というとデリダが出てきてしまうのだが、当然、ドゥルーズ=ガタリだってあります。ソーヴェナルグが数少ないドゥルーズ=ガタリ系動物論か。
ピアソンはニーチェ、ドゥルーズ、ベルクソンに関する三部作の著書のある人。

§12
Jodi Dean and Paul Passavant (eds.), Empire's New Clothes: Reading Hardt and Negri, Routledge, 2003.(ジョディ・ディーン+ポール・パサヴォン編『帝国の新しい衣服:ハート/ネグリを読む』)
§13
Arjun Appadurai (ed.), The Social Life of Things: Commodities in Cultural Perspective, Cambridge University Press, 1988.(アルジュン・アパデュライ編『事物の社会的生:文化的視野における商品』)
§14
Anthony C. Alessandrini (ed.), Frantz Fanon: Critical Perspectives, Routledge, 1999.(アンソニー・C・アレッサンドリーニ編『フランツ・ファノン:批判的視野』)

ここは(一応)ポストコロニアル系。『帝国の新しい衣服』には、アフリカという視点からの『〈帝国〉』批判などがあり。
モノthing, obje(c)t、そしてフェティシズムの観点からグローバリゼーションを見ることの重要性。
それとファノンについての重要論文選。

§15
John D. Caputo, Demythologizing Heidegger, Indiana University Press, 1993.(ジョン・D・カプート『ハイデガーを脱神話化する』)

ハイデガーと個体性の問題について考えるときにたいへん世話になりました。『無能な者たちの共同体』のトラークル論はこれがネタ元です。

*このブックリストは、ジュンク堂書店池袋本店4階・人文書コーナーの洋書棚から、田崎英明氏がセレクトし、コメントを添えたものです。『無能な者たちの共同体』所収の「文献案内」とあわせてご活用ください。

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田崎英明:ランシエール『不和あるいは了解なき了解』書評

ジャック・ランシエール著『不和あるいは了解なき了解』重版にちなみ、著者の許諾のもとに、以下の書評を掲載いたします。ランシエールへの導入として最良のテキストだと思われます。同書初刷刊行のさいに出た書評のひとつです。6000字。いまはむかし『未来』誌がアナーキーだった頃のおはなし。

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無を数える、言葉を所有する──政治の条件
[書評]ランシエール『不和あるいは了解なき了解』

田崎英明


[『未来』2005年7月号、32-36頁]


本書の原著は一九九五年に出ている。つまり、ソ連・東欧の社会主義の解体を「民主主義の勝利」として称揚する者たちに向かって事態はその正反対であることを、「政治とは何か」「民主主義とは何か」ということの根源まで遡って論じようとしたのである。そして、この十年間に、「民主主義」をめぐる状況はますます酷くなるばかりだ。「民主主義の輸出」なる口実のもとでさまざまな殺戮が繰り広げられている。「掃討作戦」を通して築かれる「民主主義」とはいったいどのような代物なのだろう。このような現在において、本書の必要性はますます高まっているといえよう。待たれていた翻訳である。

本書の著者ジャック・ランシエールは、若くしてアルチュセールのもとで『資本論を読む』に著者として参加したが、六八年五月の出来事に際して、共産党にとどまったアルチュセールを批判、七四年には『アルチュセールの教え』と題する書を出版した。そこでの批判点のひとつは、アルチュセールがそのイデオロギー装置論まで含めても、不十分な主体の理論しかもっていないこと、とりわけ、主体についてのポジティヴな理論をもっていないことであった。これはランシエールと同じく、というか、むしろ彼以上に激烈なマオ派だったアラン・バディウが八〇年代に『主体の理論』で展開する議論にも共通している。革命的主体の問題をバディウはラカンによって解こうとしたのだが、それに対して、ランシエールは十九世紀の労働者たちのアーカイヴに向かう。

ランシエールは『論理的叛乱』(このタイトルはランボーの詩に由来するという)という雑誌を創刊する。そこでは十九世紀の労働運動や民衆の芸術がテーマとなる。十九世紀の労働者の歴史の一種の読み直しなのだが、ランシエールたちの視線はあくまで哲学者のそれである。つまり、無名の労働者の残したパンフレットやビラをプラトンやヘーゲルを読むように、テクストとして扱うのである。それは、のちに(九〇年代に)アラン・ド=リベラが、ル=ゴフの社会史に対抗して中世知識人についての哲学的歴史を書いたのと同様に、もちろんそれに先駆けて、ランシエールたちを社会史ないし社会学的歴史に対立させることになる。ランシエールの理解するところによれば、社会史には語る存在に対する抜きがたい不信がある。ブローデルの時系列分析はそのひとつの典型であるが、そればかりではない。むしろ、彼が批判の対象としてよく取り上げるのはリュシアン・フェーヴルのラブレー論である。「ラブレーは無神論者であったか」という問いに、フェーヴルは「それは不可能である」と答える。事実への問いに対して、(不)可能性によって応えるのである。言説という出来事が、その生産と流通の可能性の条件へと解消され、雲散霧消してしまう。社会史において、語る存在は、一種の見せかけ=現われとして扱われ、自分が何者で、本当は何をいっているのか理解していない、自分自身の実体からは、ずれた存在と見做される。歴史記述が科学になれるのは、あたかも他者の言葉に耳を貸すのを拒むかぎりにおいてであるかのようだ。だが、自分が何をいっているのかを理解していない存在、言葉に似た音声を発することは認められても言葉の所有は承認されない存在、それはアリストテレスによる奴隷の定義そのものではないか。さらにいえば、十九世紀において、哲学や詩作に費やす自由時間を獲得するために賃上げを要求した職人たちに向かって、分を弁えろ、お前たちは働く存在でしかないのであって語る存在ではないのだ、言葉と労働は両立しないのだ、と説く親方たちもまた、同じことをしていたのではないか。

語る存在はいつもその身元(アイデンティティ、所有関係や社会的分業のなかで占めるポジション、職業)とは一致しない。このずれを解消しようとするのではなく、むしろ、政治にとって構成的なものと考えること。それは階級闘争をその歴史のなかに位置づけ直し、改めて政治的共同体の根本に据えることである。一方では、他人に耳を傾けてもらえるような言葉を所有しているのは、すでに財産を所有している者、つまり、共同体の内部に分け前=持ち分 part をもつ者だけであるとする者たちがおり、他方には、自分たちも言葉を話す以上すでに共同体に対して分け前=持ち分をもっているはずだと主張する者たちがいる。一方は他方に対して「お前たちの発しているのは言葉ではない」といい、反対は、「自分たちはあなた方と同じように話しているし、あなた方と同じ言葉を用いて平等な扱いを要求していることそれ自体が、私たちがあなた方と平等であることを証明している」という。ここにあるのは、ある種の遂行的矛盾であり、また、同じ場面をめぐり、同じ言葉を使いながら異なる解釈の争いである。快と苦痛を表わす声ならば多くの動物がもっているが、言葉は人間だけがもっている。そして、言葉によって人間は有用性と有害性、さらには正義と不正を表明し、ひいては善悪を知覚する。アリストテレスの『政治学』のほとんど冒頭に出てくる、なぜ人間はポリス polis 的なのかを説明したくだりで問題となっている声と言葉の差異が十九世紀の労働運動においても賭けられているものだったのだ。

ランシエールの主著のひとつと目されるべき本書『不和』は、彼が七〇年代から八〇年代にかけて、十九世紀を舞台として探求してきた平等と自由の問題を、古典古代の政治哲学の誕生の場面にまで遡って、そもそも政治とは何かを論じたものである。十九世紀の階級闘争の発話の場面、その行き違いを「不和」(誤解、計算違いの意味ももつ)と名づけて主題的な分析を行ったのが本書なのである。

ランシエールによれば政治の創設はある根源的な間違い tort、計算違いに基づいている。まず彼は、アリストテレスが『政治学』で語った「有用性」と「有害性」が、ギリシャ語では実は対になった語ではなく、そこに一種の共約不可能性が紛れ込んでいることを指摘する。有用性は他者なしに規定される。私にとって有用なものが、即、他者にとって損害であるわけではない。ところが、有害性は誰かが他人に対して与えた害 tort を意味している。したがって、ランシエールによれば、アリストテレス自身が『ニコマコス倫理学』で与えているその反対語は、「他者からの援助」である。このような、他者との商品の交換比率をどうするかとか他者に与えた損害をどう補償するかという尺度に関する算術的な秩序、つまり、算術的な平等は、まだ政治的ではない。政治的であるのは、つまり、政治的共同体の創設にかかわるのは、共同体における自分の分け前=持ち分 part に応じて受け取るという幾何学的平等である。だが、このような政治理論は、そもそもの政治の創設にかかわる闘争、つまり何を共同体における分け前=持ち分と数えるべきか、誰を当事者 partie と数えるべきか、という不可避に数え間違えるしかない計算への応答なのである。

アリストテレスは、政治的共同体を構成する分け前とその当事者として、少数者と彼らの所有する富裕な財産(少数者の支配=寡頭制 oligarchie)、最善の者と彼らが所有する徳(貴族制 aristocratie)、民衆と彼らが所有する自由(民主制 democratie)を挙げる。問題は自由は誰でもがもっている点だ。というよりも、何ももっていない者が所有しているのが自由なのである。それは分け前なき者の分け前 part des sans-parts、あるいは、共同体に持ち分をもたない部分である。しかも、その持ち分は誰のものでもあり、したがって、当事者は誰でもありうる。つまり、全体である。しかし、実際には、民衆とは、何も所有しない貧しい者たちであって、部分に過ぎない。民衆は無にして存在、部分であり同時に全体であるようなものなのだ。それは自分自身との同一性、アイデンティティを欠いている。無を存在と、部分を全体と数え間違えることなしに、政治的共同体は存在しない。なぜなら誰が当事者であるのかを事前に数え上げることはできないからだ。(この点で、ランシエール同様、遂行的矛盾に注目しつつ語る存在の平等を打ち立てようとするハーバーマスと対立することになる。というのもハーバーマスは、結局のところ、係争に先立って事前に当事者を数え上げられるように普遍的語用論を確立しようとするのだから。)

政治的共同体と哲学は起源を同じくしている。それは、音声しか発しない存在ではなく「語る存在」であるのは誰かをめぐる係争、つまり、感性と言語とのこの「不和」の状況から、どちらも生まれたからである。したがって、哲学はそもそものはじめから政治的である。しかし、これは哲学がつねに政治哲学であるべきであるということではない。というよりも、哲学と政治哲学とは一種の敵対関係にあるというべきなのだ。なぜなら、政治哲学は、ランシエールが政治 la politique と対立させるポリス la police に関わるからだ。政治は平等を実現するプロセスであるが、反対に、ポリス(フーコーの読者にはドイツ語風にポリツァイ、また、カルチュラル・スタディーズに馴染みのある者には英語風にポリシングといった方が通りがいいかもしれない)は統治のプロセスであり、ひとをそのアイデンティティから逸脱しないように取り締まる(ちなみに、ランシエールは政治とポリスの遭遇、そのせめぎあいを政治的なもの le politique と呼ぶ)。政治哲学は実のところ政治的ではなくポリス的なのだ。ポリスはランシエールが「感性的なものの分割=共有」と呼ぶもの、とりわけ、経験の中での身体の配分の体制を維持しようとする。それに対して、ポリス秩序の枠内では解決できない間違い=害 tort をめぐる係争が政治を可能にする。政治とは、いままで見えていなかったものを見えるようにし、音でしかなかったものを言葉として理解するような新たな主体化と感性的なものにおける身体の新しい配分をもたらし、呻き声や軋む音でなく、不正について語る言葉を話す「当事者」がそこにいたのだと明らかにすることなのである。

富める者と貧しい者の闘争について語ったのはほかでもない古代と近代の社会であり、しかも貧民と民衆の不一致の一致を否定するために語ったのだ。それゆえ、ランシエールは、古代および近代の政治哲学を三つのタイプに分ける。いずれも、民衆を特徴づける自分自身との不一致(それは伝統的に見せかけ=現象、さらには仮象とされた)を解消することを目指すものである。まずプラトンをモデルとするアルシ‐ポリティークである。これは個人の性格を集団の習俗と教育によって一致させることを通して共同体をそれに先立つ原理(アルケー)の感性化としようとする。次に、アリストテレスをモデルとし、近代になってからは社会契約と主権の理論として展開したパラ‐ポリティークは、逆に個人をばらばらにすることによって民主主義のシミュラークルを作り上げ、民主主義そのものを可能にする階級闘争を消し去ろうとする。つまり、万人の万人に対する闘争によって、集団としての当事者 partie を不可能にしようというのだ。近代政治哲学における権利の概念は、そのような個人を生み出す仕掛けである。そして、最後にマルクスのメタ‐ポリティークである。パラ‐ポリティークが、民主主義を可能にする見せかけ(それが公共領域というものだ)を民主主義の見せかけ(シミュラークル)に置き換えるのに対し、メタ‐ポリティークは見せかけとしての民主主義そのものを廃棄しようとする。民主主義を見せかけ、虚偽として告発する点では、メタ‐ポリティークはアルシ‐ポリティークと共通している。だが、メタ‐ポリティークはアルシ‐ポリティークと違って階級闘争を重視する。ただしそれを政治の真理として認めるのではなくて、社会それ自身が虚偽に陥っているという、社会の分裂という真理の徴として認めるのである。メタ‐ポリティークは政治を実現することによって政治を終焉させ、政治のいらない社会を作ろうとする。さらに、ランシエールは、ソ連社会主義が崩壊した後の世界は、民主主義の勝利でも、政治的なものの回帰でもなく、むしろ、メタ‐ポリティークの勝利、政治的なものの終焉であるという。「民主主義あるいはコンセンサス」(これはもちろん「社会主義か野蛮か」というローザ・ルクセンブルクの言葉へのアリュージョンである)と題された章では、世論とシミュレーションに基づく社会が見せかけにいかなる余地も残さないことが論じられる。スピルバーグの『マイノリティ・リポート』を見れば分かるように、予知=完全なシミュレーションの社会では私が自分自身と一致しないこと、つまり、予知された犯罪を犯さないことは許されないし、監視カメラと予知能力者がすべてを映し出し、また、それが世界のすべてであって、それと一致しないイメージは存在しないことにされる。見ていなかったものを見る必要はない。感性的なものの再配分は必要ない。すべては完璧に統治されている。ランシエールがつねに闘っているのは、このような政治の終焉に対してなのである。

ところでランシエールのこのような係争をめぐる議論は、ジャン=フランソワ・リオタールの「争異」を思い起こさせるかもしれない。だが、ランシエールは「感性的なもの」の再配分を問題にしている点が重要である。リオタールが、感性的な痕跡をまったく残していない絶対的犠牲者として「アウシュヴィッツ」を一種神秘化してしまうのに対して、ランシエールは、むしろそのような神秘化がないからこそ、ガス室の存在を否定する歴史修正主義と闘えるのだ。リオタールやランズマン監督の『ショアー』が示す「表象不可能性」の倫理‐美学に対するものとして、たとえば、今日であれば、アトム・エゴヤン監督の『アララトの聖母』を考えることができる。いまは詳しく展開する余裕がないが、第一次大戦におけるオスマン帝国によるアルメニア人の大虐殺(トルコ政府は公式にはそのような出来事の存在を認めていない)をかろうじて生き延び、移民していった難民の子孫たちがこの大虐殺を映画化するというストーリーをもつこの『アララト』という映画を、ランシエールのいう「感性的なものの再配分」として読み解いていけるだろう。そこから私たちは、ランシエールの思考のアクチュアリティを、さらには今日のディジタル化されたシミュレーション・テクノロジーに包囲された身体である私たちにとっての政治の可能性を改めて掴み取ることができるに違いない。

2010年2月19日金曜日

『愛の小さな歴史』書評@「図書新聞」岡村民夫さん

港千尋著『愛の小さな歴史』の書評が「図書新聞」最新号(2010年2月27日号/2955号)に掲載。8面。評者は岡村民夫さん(表象文化論)。最終節を抜き書き(太字は原文傍点):

《『愛の小さな歴史』が日本で出版された頃、私はアラン・レネの新作『Les Herbes folles(雑草/狂草)』をジュネーヴの場末のアール・デコ様式の映画館で観た。タイトルに示唆されていたとはいえ、アスファルトに亀裂を入れて生える雑草のショットがいきなり出てきたことに驚かされた。レネが実写映像をタイトルバックに使用することは非常にまれであり、雑草の映像をそれに使ったのは、まさに五〇年前の長篇第一作以来のはずだ。しかもこれは、他人の証明写真を偶然拾った男が巻き込まれる狂愛の「小さな歴史」なのである。──二〇〇九年、『ヒロシマ・モナムール』の「小さな歴史」がふたたびはじまった。》



3月20日〜4月18日に東京日仏学院、ユーロスペースで開催される「アラン・レネ全作上映」で最新作は上映されます。現時点での邦題は『風にそよぐ草』。以下は、日仏のパンフ『ENCORE』2号のページから(クリックすると大きくなります)

『斜線の旅』書評@『週刊文春』石川直樹さん

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昨日発売の『週刊文春』最新号(2010年2月25日号)の「文春図書館」で、管啓次郎著『斜線の旅』が書評されています。評者は石川直樹さん。

《『斜線の旅』は、発見や事件が主軸の生活記でもなければ、移動の径路や出来事を追う旅行記でもない。一方向へ向かう強い矢印があるわけではないのだ。しかし、それは旅の本質を示していた。海を越えるとまた別の島があるように、偶然の出会いによって結ばれた先には思いも寄らない行き先が見えてくる。地名を手がかりに歩き始めても、結局「言葉を失うどこかへと行き着いてしまう」という著者の紀行は、どこか懐かしく、しかしどこまでも新しい。》

2010年2月18日木曜日

越境するアフリカ文学


ジュンク堂さんの書棚「アフリカ文学」。アフリカは広い。広すぎ。広げすぎ……。越境する文学!(違うって。)

パムクはトルコで、ラヒーミーはアフガニスタン(→フランス)で、『斜線の旅』のメイン舞台はポリネシア。為念。

『PARK CITY』紹介by町口覚さん@『コマーシャル・フォト』3月号

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現在発売中の『コマーシャル・フォト』2010年3月号に、笹岡啓子写真集『PARK CITY』が紹介されています。「フォトグラファーのための写真集ナビゲーション 町口覚の解体」連載の第2回目。アートディレクター町口覚さんによる取材・文です。

重版注文用紙急遽制作中

書店さん向けの注文用紙です。しばらく品薄が続いておりましたが、このたび重版いたします。法政大学出版局と平凡社の新刊が立て続けに刊行されますので。

既刊フライヤー急遽制作中

上映映画館配布用。明後日土曜日からは、新潟のシネ・ウインドで2週間の上映。書籍は映画館でも販売いたします。

「アラン・フレシェールとル・フレノワ国立現代アート・スタジオの軌跡」をめぐるメモ二件

ストローブの新作の上映がおそらくいちばん注目されている、東京日仏学院での今月末からの特集上映「アラン・フレシェールとル・フレノワ国立現代アート・スタジオの軌跡」ですが、そのうちの2作品に関連して、以下メモしておきます。

1)『Inland』(タリク・テギア監督、2009年)

当欄でもすでに簡単にご紹介したジャック・ランシエールの新しい邦訳『感性的なもののパルタージュ──文学と政治』(法政大学出版局、2009年)に収録された、訳者による著者インタビューのなかで、ランシエールが本作に言及しています。「支配的なフィクションの体制が創設しているような諸同一性を移動させるフィクション」(122頁)のひとつとして──『コロッサル・ユース』(ペドロ・コスタ監督、2006年)と並べて──紹介しています。当該箇所を抜き書き:

《それから、タリク・テギアの最近のアルジェリア映画『インランド』のことも念頭にあります。この映画は、今日のアルジェリアの状況に関して、きわめて興味深いものです。そのフィクションの中心に据えられているのはひとりの測量士であり、彼は土地の台帳を作るのですが、それは政治的駆け引きから身を引いていくかのようにです。映画は、一群の知識人が議論し、社会や革命についてのドゥルーズ的なヴィジョンを語っている場面と、かつてこの知識人集団の一闘士だったこの測量技師が、そこから身を離し、オラン南部に土地を測量しに行く場面のモンタージュから成っています。その途中で、彼はモロッコからスペインへと渡ろうとしていた一群を見舞った災難を逃れた一人の黒人の女に出会います。そして、彼は仕事を投げ出して、彼女が自身の国に帰るのに付き添って行きます。そこでは、植民地主義や移民、闘士的態度の図式、そして権威や狂信に対する関係の図式が真にずらされ、場と運動への集中へと成りかわっています。ひとつの場を測量し始め、この測量を、その場を構成している権力の地勢図、そして支配的な哲学‐政治的言説によって構築された地勢図と突き合わせてみるとき、この場について何を言うことができるのか。ひとつの場を、ただ自分がそこに見るものにのみ基づいて特徴づけなければならない立場におかれる時、何が起きるのか。移住の大流動、移民の深刻な問題等々が、砂漠における方角の選択のようなものに成り代わってしまう瞬間から、一体何が生じるのか。そこには、土地の経験、そして目に見えるものとそれが可能にする行動の経験への回帰のようなものがあり、それが、支配的な言説と支配的な地勢図によって定められた方向づけの体制すべてを粉砕しているのです。》(123─124頁)

これを読んで観てみたいとちょうど思っていたところでした。ランシエールもル・フレノワで観たのでしょうか。なお、ランシエールによる『コロッサル・ユース』論については、直前のエントリーを参照(ええ、宣伝ですよ)。

2)『ジャン=リュック・ゴダールとの会話の断片』(アラン・フレシェール監督、2007年)

この作品を含む、フレシェールが監督したゴダールインタビュー集成DVDボックス(570分)が発売されたばかりです。
http://www.editionsmontparnasse.fr/jlg/

ここで触れたいのはその発売情報ではなく、昨秋の話柄。フレシェールによるゴダールの「反ユダヤ主義」の「告発」です。「ル・モンド」紙(2009年11月19日付)が報じたのをきっかけに波紋を呼んだ模様ですが(「Godard Fleischer antisemitisme」で検索すれば出てきます)、フレシェールが昨年9月に刊行した著書(Courts-circuits, Editions le Cherche Midi, 2009)のなかに、上記の『会話の断片』収録のいきさつに言及している箇所があり、対話者のジャン・ナルボニにたいして以下のような発言を収録の合間にゴダールがした、とフレシェールが記している由──「パレスチナ国家を実現させようとしてなされるパレスチナ人たちの自爆テロは、せんじ詰めれば、ガス室で羊のように扱われ、絶滅させられ、そうして自らを生贄にし、イスラエル国家を実現させるに到った、そのユダヤ人たちがしたことと似ているのだ」。この発言にフレシェールは、ゴダールの「反ユダヤ主義」を看取し、それを「告発」している。「ル・モンド」の当該記事もゴダール作品における「パレスチナ/イスラエル」への言及を跡づけていますが(最も新しいところでは『アワーミュージック』[2004年])、即座に『JLG/自画像』(1995年)の「ステレオのフィギュール」を想到するところでしょう。ゴダールにおける「反ユダヤ主義的傾向」への批判的指摘がなされたことはこれまでにもありましたが、おそらく今回はゴダール固有の問題よりも広いコンテクスト、近年のフランス論壇での「反ユダヤ主義告発」の文脈も背景に控えているかもしれません。(この件、以下の記事などを参照しつつ慎重に書いているつもりですが、事実誤認などがありましたらご指摘いただければ幸甚です。フレシェール本は、現在取り寄せ中。)
http://www.lemonde.fr/cgi-bin/ACHATS/acheter.cgi?offre=ARCHIVES&type_item=ART_ARCH_30J&objet_id=1105925
http://www.liguededefensejuive.net/spip.php?article1303

なお、この問題に関しては、小社より刊行予定の平倉圭著『ゴダール的方法』(仮)でも論及される見込みです(ええ、宣伝ですよ)。

【追記】いち早く知りたければ韓国に行くがよろし。

ペドロ・コスタ『コロッサル・ユース』劇場用パンフレット

思うところあり菊地成孔『ユングのサウンドトラック』(イースト・プレス、2010年)に目を通しておりましたら、大絶賛されているのを見つけまして、ここで唐突ですが、ペドロ・コスタ『コロッサル・ユース』(2006年)劇場用パンフレットの書誌情報を掲載しておきます。

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ペドロ・コスタ『コロッサル・ユース』劇場用パンフレット

[目次]
手紙I
英雄──ペドロ・コスタの言葉から
精神と現実の間の映像|王兵
災厄──『コロッサル・ユース』|クリス・フジワラ
二つの《コロッサル・ユース》──“若き大理石の巨人”を聴く|岡田秀則
島の地層、うたの襞──『コロッサル・ユース』の現場|東琢磨
廃墟の呼吸──『コロッサル・ユース』という建築|鈴木了二
ヴェントゥーラの手紙|ジャック・ランシエール
歴史──ペドロ・コスタの言葉から
手紙II
『コロッサル・ユース』シナリオ採録
ペドロ・コスタ監督プロフィール/フィルモグラフィ
手紙III

W117×H172ミリ 総頁192
2008年5月24日発行
デザイン:秋山伸+松井健太郎(schtücco
頒価:1000円
発行:シネマトリックス

目次の補足:
*手紙Iは「『コロッサル・ユース』の主人公ヴェントゥーラが繰り返し諳んじる一通の手紙の全訳」、手紙IIは、手紙Iが典拠としているロベール・デスノスの手紙、手紙IIIは、「ダニエル・ユイレの訃報に接し、ペドロ・コスタが寄せた一文。『リベラシオン』紙(2006年10月18日)より訳出」で、手紙IIを転用している。IIとIIIは谷昌親訳。
*ランシエールの論攷は『トラフィック』61号(2007年春)から訳出(土田環訳)。なお、ランシエールにかんしては、『ヴァカルム(Vacarme)』23号(2003年春)所収の『ヴァンダの部屋』論が「映画作家の部屋」(土田環訳、「ペドロ・コスタ監督特集2004」パンフレット、アテネ・フランセ文化センター、2004年)として訳出されている。
*それ以外の論攷、エセーはすべて書き下ろし。
*フィルモグラフィの作品解説は葛生賢

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菊地さんの発言は、『コロッサル・ユース』上映後トークの採録。「おいくらでしたっけ? 1000円。なるほど。対価価値としては非常に安いですね。5000円ぐらいの価値があると思いますけれども、とりあえず皆さん全員、必ず買ってください(笑)。今どきこれほどパンフが必要で、そのパンフが果たして大変充実しているという映画はありません。」(109頁)……だそうです。

また、つい先日当欄でご紹介した宮岡秀行氏のサイトで、「2008年のベスト批評」のひとつに、同パンフのクリス・フジワラのテクストを挙げておりました。もう一つ挙げておけば、ランシエールの邦訳新刊でも『コロッサル・ユース』が言及されていました(次エントリー参照)。そんなこともありまして、載せておきます。

以前、当欄で「映画に(反)対して──ギー・ドゥボール特集」上映カタログをご紹介したことがありましたが、映画パンフレットの書誌情報というのはわりと貴重でしょう。本ブログ運営者も編集にかかわっているらしいので、宣伝めきますが。というかどう見ても宣伝ですが。入手方法は発行元にお問い合わせください。


なお、ペドロ・コスタ最新作『何も変えてはならない』は2010年初夏ロードショー公開予定(配給=シネマトリックス)。



菊地本、『ノートル・ジーク』『ソシアリム』っていったい。天に唾する誤記指摘というやつです。

2010年2月17日水曜日

続刊フライヤー急遽制作中

5月刊行を期しておりますが、もう少し遅れるかもしれません。というわけで「初夏」。上の「最新情報」にも挙げておきました。

2010年2月15日月曜日

エリセ作品、ふたたび東京で上映

ビクトル・エリセ監督作品『ミツバチのささやき』『エル・スール』ですが、ひきつづき以下の上映予定が公表されています。

2010年2月20日(土)〜3月5日(金)
シネ・ウインド(新潟市)
『ミツバチのささやき』『エル・スール』
http://www.wingz.co.jp/cinewind/

2010年4月9日(金)〜11日(日)
シアタープレイタウン(秋田市)
『ミツバチのささやき』『エル・スール』
http://www.playtown.org/

[3/3追記]
2010年4月17日(土)〜23日(日)
桜坂劇場(那覇市)
『ミツバチのささやき』『エル・スール』
http://www.sakura-zaka.com/

2010年5月8日(土)〜29日(土)
下高井戸シネマ(東京・世田谷区)
『ミツバチのささやき』:8日(土)〜14日(金)モーニング上映、17日(月)〜22日(土)レイトショー
『エル・スール』:15日(土)〜21日(金)モーニング上映、24日(月)〜29日(土)レイトショー
http://www.shimotakaidocinema.com/

上掲の通り、5月にはふたたび東京、下高井戸シネマでスクリーンに掛かります。昨年5月以来1年ぶりの同館での上映です。昨年のさいには、好評だったのでまた上映の機会を作りたいと映画館の方が仰っていましたが、実現しました。先日(1月31日)の池袋・新文芸座での1日限りの上映は超満員だったと仄聞しております。行き損ねた方はこの機会にぜひ。小社刊行の原作本『エル・スール』もぜひ。

2010年2月13日土曜日

管啓次郎×林巧対談「“旅を書くこと”を語る」@3/9青山BC本店

管啓次郎著『斜線の旅』の刊行を記念し、以下のトークイヴェントを開催いたします。告知でのプロフィルには「作家」とだけありますが、林さんは、管さんによれば「作家・妖怪研究家・チャイナタウン研究家」だそうです。ぜひお越しください。

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『斜線の旅』(インスクリプト)刊行記念
管啓次郎×林巧 トークイベント
「“旅を書くこと”を語る」

2010年3月9日(火)19:00〜(開場18:30〜)
■会場:青山ブックセンター本店内・A空間

■定員:40名様
■入場料:500円(税込)
■2010年2月13日(土)10:00より
[1]オンラインストアにて予約受付開始。
[2]本店店頭にてチケット引換券を販売。
 (入場チケットは、イベント当日受付にてお渡しします。当日の入場は、先着順・自由席となります。)
■お問い合わせ:青山ブックセンター本店 電話03-5485-5511
 (営業時間:10:00〜22:00)
※電話予約は行っておりません。

[イベント内容]
詩人・比較文学者の管啓次郎さんの『斜線の旅』刊行を記念し、作家の林巧さんとのあいだで繰り広げられる旅についてのトークイベントです。管さんは南北アメリカを含む環太平洋地域を中心にした数多くの旅、林さんは中国、東アジアを中心にこれまたたくさんの旅を重ねながら、それぞれ名文による旅行記を綴り、旅についての思考を深めてこられました。旅の楽しみ、旅について書くことをめぐる、洞察に満ちたトークです。

[プロフィール]
管啓次郎(すが・けいじろう)
1958年生まれ。詩人、翻訳家。明治大学教授。80年代より南北アメリカ、ハワイを中心に数多くの滞在と旅を経ながら、エッセイ、評論を書き継ぐ一方、ラテンアメリカ、チカーノ、クレオール文学を精力的に紹介している。エッセイ、評論に『ホノルル、ブラジル』『本は読めないものだから心配するな』『オムニフォン』ほか。訳書に『〈関係〉の詩学』『パウラ、水泡なすもろき命』『燃えるスカートの少女』『こどもたちに語るポストモダン』ほか多数。

林巧(はやし・たくみ)
1961年生まれ。作家、とりわけSF・ホラー小説で秀逸な作品を発表。また、妖怪と音楽と人間を求めてアジアの数多くの都市やジャングルを旅している。旅をテーマにした名作『マカオ発楽園行き』『チャイナタウン発楽園行き』やアジア音楽紀行である『アジア夜想曲』『エキゾチック・ヴァイオリン』などのほか、『叫』『ピアノ・レッスン』『ラスト・ブラッド』などのホラー小説が数多くある。

[書籍紹介]
『斜線の旅』管啓次郎著、インスクリプト、2,520円(税込)
水半球に横たわる「見えない大陸」(ル・クレジオ)、ポリネシア。フィジー、トンガ、クック諸島、タヒチそしてイースター島へ。ニュージーランドを拠点にしたポリネシアの大三角形踏破を軸に、島旅の快楽、旅について、旅について書くことについて綴られる思考のクロニクル。

http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_201003/201039.html
http://www.aoyamabc.co.jp/

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ちなみに、林さんのブログはこちら:
http://d.hatena.ne.jp/h_major/
管さんはこちら(だけじゃなくあと2つ以上はあるのですが、教えない):
http://monpaysnatal.blogspot.com/

「小島一郎という青森の写真家の作品に感銘を受ける。静謐なる生へのエネルギー。」(曽我部恵一日記より)

ご紹介しそこねていましたので、こちらも。展覧会関連のライヴで訪れた青森県立美術館にて。


http://d.hatena.ne.jp/sokabekeiichi_diary/20100131/1264951824
http://d.hatena.ne.jp/sokabekeiichi_diary/

「ぼくが好きな写真家はベルナール・プロスと小島一郎。」(椎名誠「今月のお話」より)

「いま書評はどうなっておるのか!」特集ということで購ってみた『本の雑誌』2010年3月号(321号)を捲っていたところ、特集とは関係のない最後のほうのページに「小島一郎」という名前を見つけました。

(クリックすると大きくなります)

言うまでもないでしょうが、椎名さんは同誌の編集人。

『PARK CITY』書評@産経新聞読書欄

本日(2010年2月13日)付の産経新聞朝刊読書欄(18面)で笹岡啓子写真集『PARK CITY』が紹介されています。記者による書評(署名=「知」)です。社名の誤植は遺憾に存じますが、それはそれとして、いろんな意味でお目にかけねばと思いましたので、右にスキャン。クリックすると大きくなります。

【追記(2/16)】以下の産経新聞のウェブページに転載されていました。
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/100213/bks1002130734004-n1.htmWebCite

『斜線の旅』書評@「書評空間」大竹昭子さん



「KINOKUNIYA BOOKLOG 書評空間」大竹昭子さん(文筆家)のブログで、管啓次郎著『斜線の旅』が取り上げられています。冒頭のみ引用──

「生命運動そのもののような旅のあり方」

この本を読んでいるあいだずっとふんわりした至福に包まれていた。日常を変えてしまうような急上昇の興奮ではない。時間の色が変わり、ルーティーンワークすらが楽しくなるような変化である。生活というのは繰り返しで、繰り返しが得意でない私はときどきそのことに苛ついたりするが、この本をかたわらに置いて1篇ずつ読むことでそれが避けられた。本はやっぱりありがたい。(…)

http://booklog.kinokuniya.co.jp/ohtake/archives/2010/02/post_56.html

以下つづきも上のリンク先で、ぜひお読み下さい。

管さんも更新しましょうねー。

広島出張の収穫物


好プログラムと好著。いずれも発行はひろしま女性学研究所。とりわけ前者の企画の先鋭さと志の高さ。「戦後・日本・映画」に関心がある者は見逃せないんじゃないか(「ヒロシマ・平和・映画」の枠を超えているということ)と思われますがどうでしょう。次は2011年12月の由。

2010年2月11日木曜日

笹岡啓子写真展「PARK CITY」開催中

既報の通り、笹岡啓子写真集『PARK CITY』の刊行を記念し、広島にて以下の写真展が開催中です。本日(11日)レセプションパーティが開かれます。ご近隣に在住のかたはぜひご来場ください。展覧会は日曜日までです。


PARK CITY
SASAOKA KEIKO


[日時]

2010年2月9日(火)〜14日(日)
11時〜20時(最終日は17時まで)

[会場]
gallery G
広島市中区上八丁堀4-1 アーバンビューグランドタワー公開空地内
http://www.gallery-g.jp/

[レセプション]

2010年2月11日(木・祝)18時〜20時

港千尋×堀江敏幸対談「写真の瞬間──小さなものへの眼差し」@3/13青山BC本店

港千尋著『愛の小さな歴史』の刊行を記念し、以下のトークイヴェントを開催いたします。『正弦曲線』でさきごろ読売文学賞を受賞された作家・堀江敏幸さんとの対談です。堀江さんは毎日新聞に『愛の小さな歴史』『HIROSHIMA 1958』の書評を寄せられています(こちら)。ぜひお越しください。

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『愛の小さな歴史』(インスクリプト)刊行記念
港千尋×堀江敏幸 対談
「写真の瞬間──小さなものへの眼差し」


2010年3月13日(土)18:00〜(開場17:30〜)
■会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山

■定員:120名様
■入場料:800円(税込)
■2010年2月13日(土)10:00より
[1]オンラインストアにて予約受付開始。
[2]本店店頭にてチケット引換券を販売。
 (入場チケットは、イベント当日受付にてお渡しします。当日の入場は、先着順・自由席となります。)
■お問い合わせ:青山ブックセンター本店 電話03-5485-5511
 (営業時間: 10:00〜22:00)
※電話予約は行っておりません。

[イベント内容]
「コンタクトプリントに刻まれたまなざしの意味を探りながら、写真の本質を問い直そうとする、穏やかだが野心的な試み」(堀江敏幸氏、毎日新聞書評より)と評された港千尋氏の『愛の小さな歴史』刊行を記念し、写真が写しとる〈瞬間〉の意味、写真と映画・映像などをめぐって展開される、深くかつ楽しいトークです。

[プロフィール]
港千尋(みなと・ちひろ)
1960年生まれ。映像人類学者、写真家。多摩美術大学教授。1985年よりパリを拠点に写真家、批評家としての活動を開始。2007年ヴェネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナー。主な著書に、『群衆論』、『注視者の日記』、『記憶──「創造」と「想起」の力』(サントリー学芸賞)、『映像論』、『予兆としての写真』、『レヴィ=ストロースの庭』など、写真集に『波と耳飾り』、『瞬間の山──形態創出と聖性』、『文字の母たち』他。2008年に編者としてエマニュエル・リヴァの写真集『HIROSHIMA 1958』の刊行に関わる。
堀江敏幸(ほりえ・としゆき)
1964年生まれ。小説家、フランス文学者。早稲田大学文学学術院教授。95年に『郊外へ』を刊行。99年の『おぱらばん』で三島賞受賞以降、多数の小説、エッセイを発表し、多くの文学賞に輝いている。主な作品に『熊の敷石』(芥川賞)、『雪沼とその周辺』(谷崎賞、木山捷平文学賞。収録短篇中「スタンス・ドット」で川端賞)、『河岸忘日抄』(読売文学賞)、『未見坂』ほか。『正弦曲線』で第61回読売文学賞(随筆・紀行賞)をこの2月に受賞。読売文学賞は二度目の受賞となる。

[書籍紹介]
『愛の小さな歴史』港千尋著、インスクリプト、2,625円(税込)
アラン・レネ、マルグリット・デュラスが映画史に残した傑作『ヒロシマ・モナムール』。その主演女優エマニュエル・リヴァが撮ったロケ当時の広島の写真を再発見し、写真集『HIROSHIMA 1958』(インスクリプト)を編纂した港千尋が、彼女の写真に導かれつつ、映画の生成過程に分け入り、時間と記憶、写真と夜をめぐる考察を織りあげる写真論、映像論。

http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_201003/20100313_event.html
http://www.aoyamabc.co.jp/

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堀江さんの『正弦曲線』(中央公論新社)は、小社の全書籍の装幀を担当している間村俊一さんによる造本。函入りでタイトル銀箔押し、恩地孝四郎「ライチー・一枝」が空押しされています。瀟洒というのはこのこと。




なお、管啓次郎著『斜線の旅』をめぐっても青山ブックセンターでのイベントを予定しております。管さんのブログのこちらご参照。3月9日のものが『斜線の旅』関連です。詳細近日ご案内。

書評記事まとめてご紹介

このところの書評記事、紹介記事をまとめて紹介いたします。多事多端でブログの更新もままならぬ有りさまでして。

▼まずは、港千尋著『愛の小さな歴史』

*『週刊文春』2010年2月11日号(2月4日発売)「文春図書館:著者は語る」(著者インタビュー記事)
「本書の中盤以降では、映画が表象する時代の空気にはじまり、死や瞬間や写真について、フランス現代思想やオルペウスの神話を引きながらスリリングな考察が繰り広げられる。思考は大きく弧を描き、最終的に、リヴァの写真の持つ魅力の秘密を探り当てる。」

*「北海道新聞」2010年1月31日書評欄紹介記事(無署名)
「ヌーベルバーグの傑作として名高い日仏合作映画「二十四時間の情事」に秘められた意図とは─。撮影時の写真をもとに監督のアラン・レネ、脚本のマルグリット・デュラスが映画に込めた仕掛けを解読する。舞台の「広島」が想起させる悲劇。内容を理解せずにフランス語で演じた俳優・岡田英次が果たした役割など、映画と写真の本質に迫った刺激的映像論。」(http://www5.hokkaido-np.co.jp/books/new/new.htmlWebCite

▼つづいて、笹岡啓子写真集『PARK CITY』

*「信濃毎日新聞」2010年1月24日朝刊書評欄写真集コーナー(無署名)
「主題は被爆地広島には違いない。だが、世に流布する「ヒロシマ」的イメージとは異なる。引き気味で、陰翳深く写された公園や街、原爆資料館の光景。そこには、被爆都市を象徴する空間がいま抱える語りがたさやもどかしさ、空虚さが浸出してきている。戦後の広島で撮られたフランス映画のせりふを思い出す。私はヒロシマを見たと言えるのだろうか。被爆の記憶が風化する現在を鋭く問う一冊だ。」

*アサヒカメラ.net「新刊ブックガイド」2010年1月(無署名)
「20世紀に原爆という災いを経験した広島という都市。その都市を21世紀に見つめ直す写真家のまなざしは、歴史を現在の写真に刻むことの可能性を、静かに私たちにしめしている。」http://www.asahicamera.net/info/bookguide/index.php?yyyy=2010&mm=01

▼そして、管啓次郎著『斜線の旅』

*「東京新聞」ほか中日新聞系列各紙、2010年1月28日〜29日、沼野充義「文芸時評」
「それ[=『すばる』掲載のヘルタ・ミュラーへのインタビュー記事]に対して爽やかな、別の種類の越境する言葉の力を感じさせてくれたのは、管啓次郎『斜線の旅』。フィジー、トンガ、タヒチから恐山まで自由に足を延ばし、言葉と世界について考え続けるこの健脚の旅人は、また世界文学の旅人である。いまの日本文学にまだまだ不足しているのは、この自由な感覚だと思う。」



余談──おそらく上記の港千尋インタビューを担当された編集者の「仕業」だと勝手に想像しますが、『ダカーポ特別編集 最高の本!2010』での新聞雑誌書評担当編集者へのアンケートで、『週刊文春』が異彩を放っておりました。ベストが『シネキャピタル』(廣瀬純)だなんて。文春のくせにシネキャピタル。5位が『科学から空想へ──よみがえるフーリエ』(石井洋二郎)。夢見る文春。

『みすず』読書アンケート

これは別エントリーにしておきましょう。『みすず』2010年1・2月合併号は毎年恒例の「読書アンケート特集」。今回は154名の方々が回答。小社の書籍も取り上げられておりました。ページ登場順にご紹介。

鈴木布美子(映画史)
エマニュエル・リヴァ『HIROSHIMA 1958』──「スクエアフォーマットのモノクロームの映像は五〇年という時間の壁を超えて、ある力強さと初々しさを伝えてくれる。レネの映画の成立過程を知るドキュメントとしても面白かった。」
港千尋『愛の小さな歴史』──「著者は前出のリヴァの写真との出会いを出発点に、レネの映画を今日的な映像論の視点から捉え直している。映画を映画内で完結した事象としてではなく、世界との関わりとして読み直す。レネの作品の持つ未知な豊かさへのアプローチとして興味深い一冊だった。」

大島洋(写真家)
『小島一郎写真集成』──「(…)青森県立美術館で開催された回顧展のカタログを兼ねて出版された待望久しい集成(一九二四─一九六四)である。」

宇野邦一(フランス文学)
港千尋『愛の小さな歴史』──「(…)リヴァの残した広島の写真を追いかけつつ、この本は映画論、写真論、歴史論をユニークな形で交錯させる。」

最上敏樹(国際法・国際機構論)
アデライダ・ガルシア=モラレス『エル・スール』──「(…)小説と映画では筋立てがかなり異なっていて、しかし両方とも静寂と孤独の漂う佳品である。」



[追記(2/13)]大島洋さんの小島一郎論についてはこちらのエントリーもご参照。




ざっと見渡して、何人かの方が重複してあげているのは、以下のようなところ。互盛央『フェルディナン・ド・ソシュール』、岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』、田中純『政治の美学』、仲里効『フォトネシア』、「“文化資源”としての〈炭鉱〉展」図録、小尾俊人『昨日と明日の間』。今回は若い方々が幾人か初めて加わっているのが印象的ですが、「読書アンケート」と言っているのに『Limits of Control』を挙げてくる郡司ペギオ幸夫氏と、「読書アンケート」と言っているのに自分の本の宣伝だけなさっている荒川修作氏に、仰け反る。

書評記事落穂拾い

今更ではありますが、昨年のうちに出ていた書評記事を見つけましたので、ご紹介。落穂拾いということで。

▼アデライダ・ガルシア=モラレス著『エル・スール』

*『ミセス』2009年9月号「野中柊さんの今月の本4冊」
「秘密を打ち明けるような、囁き声の文体が美しい。(…)作品全体に漂う清らかなインセストの匂いに、花開く前の、蕾の中の香りとは、こんなものだろうか、と思わせられる。」

同誌では、池内紀・川上弘美・堀江敏幸・福岡伸一・斎藤美奈子・野中柊の各氏が書評委員を務められている由。備忘メモ。

▼杉浦勉著『霊と女たち』

*『週刊金曜日』2009年12月25日号(781号)座談会「書評委員が選んだ2009年のベスト本!20冊」
五所純子「魔女として迫害された女性たちが、実際にはどのような知識や技術、力能をもっていたのかが紐解かれています。魔女裁判の記録を読み返すことで、女性が主体的に書くことの問題に触れられているのが他人事ではないですし(笑)、現在につらなる女性たちの営みのなかで詩的な想像力が刺激されます。」

同号は田中美津による例の小熊『1968』批判が載った号です。書評委員は、本橋哲也・五所純子・陣野俊史・北原みのりの各氏。五所さんはすでに同誌で『霊と女たち』書評を書いてくださったことがありましたが、再び取り上げていただきました。ほかに彼女が挙げているのが『フードジョッキー』『KEI チカーノになった日本人』『百舌谷さん逆上する』『シネキャピタル』という絶句なセレクション。つい最近知りましたが、五所さんのブログ、無類にクール。やられた。http://d.hatena.ne.jp/goshojunko/