小島一郎+森山大道展(「写真の会賞」展)、
残すところあと3日です。どうぞお見逃しなく。
会場で配布している
リーフレットに掲載した、高橋しげみさんによるテキストを以下に転載いたします。今回のPLACE Mの小島スペースの展示構成も高橋さんが手掛けています。
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小島一郎の「東京」
第21回写真の会賞[写真の会賞展]によせて
高橋しげみ(青森県立美術館学芸員)
今年1月10日から3月8日にかけて、青森県立美術館で「小島一郎──北を撮る」展
(以下「北を撮る」展)が開催された。写真家の郷土である青森での回顧展は、以前も何度か開かれてきたが、全生涯にわたる仕事を包括的に取り上げたものとしてはそれが初めてであった。
「北を撮る」展は青森のみでの開催となったが、写真家が人生の大半を過ごし、また多くの写真の被写体となった地とほど近い地場で写真を提示するにあたっては、そこに生きる人々や場所自体の記憶と響かせながら、消費という態度からできるかぎり離れた部分において写真を再起させることを期していた。場所と同様、時節も重要な構成要件であった。厳寒時の撮影を好んだ小島一郎の、現在残る写真の半分以上は雪景である。雪と凍れの体験が直截的であればあるほど、写真はより多くのことを語りかけてくるはずだ、と会期は冬と最初から決めていた。
第21回写真の会賞の対象となった『小島一郎写真集成』と「研究」は、こうした展覧会を着地点に見据えた一連の働きそのものと、そこから生み出されたものに相当する。したがってこのたびの受賞展における展示は、「北を撮る」展の延長線上に位置することが求められる。小島一郎が東京と深いつながりを持った写真家であるのは幸運だった。「1初期」、「2津軽」、「3東京」、「4下北」の大きく4部で構成された青森の展覧会から「3東京」を切り出して見せること、それが縮小再生産を避けつつ青森と同等の事柄を東京において生起させるための、最善にして唯一の方途と思えた。300点以上におよぶ同展の全出品数に照らすと、「3東京」はその5パーセントにも満たない小さなセクションであったが、小島のように一つの「場所」を背負った写真家が、自らが拠って立つ地を移そうとした時に見えてくることは大きかった。被写体との距離感や「場所」をめぐるまなざしの力学の変化、それに伴う動揺は、写真家がこれまで依拠してきたものをあぶり出すからだ。
名取洋之助に見出され才能を発揮し始めた小島一郎は、1961年
(昭和36)、プロのカメラマンを目指して東京に移り住む。同年に発表した「下北の荒海」でカメラ芸術新人賞を受賞し、幸先のよいスタートを切った。翌年に開催した第2回個展「凍ばれる」も話題になったが、追い風を期待したい写真界の重鎮からは手厳しい評価を受ける。その後、東京や東海道沿いなど新たな被写体を試みるも、真骨頂を示すにはいたらず、青森で撮りためた作品を発表し続けることになった。募る焦燥感の中、東京での仕事の不振から脱け出すべく、北海道の四季の撮影を決意。1963年冬、現地に赴くが、撮影は難航する。繰り返される過酷な撮影行に、体調を崩した小島は、期待した成果を得られぬまま青森に戻り、1964年7月、39歳の若さで急逝した。
東京時代に『カメラ毎日』で小島を担当していた編集者、宮本公古は写真家の東京での仕事をこう振り返る。「東海道五十三次、東京の夕日くらいの他は、目新しい作品はなく、他はいずれも故郷青森に材を得た、いわば津軽物の発表であり、彼の上京後の成果と言えるだけのものは遂になかったのではないか」
(『カメラ毎日』1973年2月号)。
写真家の死から45年が経過した今、再び小島の写真が東京に現れる。強烈な辛酸の記憶を引き連れて。その写真を観る者のまなざしは「凍ばれる」展の会場にいた観者のそれとはもはや同じであるまい。さもなくば、この展示が失敗しているということだ。
Copyright (C) Shigemi Takahashi 2009