2011年11月30日水曜日

インスクリプト最新情報

【ウェブサイトリニューアル】
http://www.inscript.co.jp/
リニューアルいたしました。

【最新刊】
『「世界史の構造」を読む』柄谷行人著、2011年10月20日刊行。詳細はこちら。★現在第2刷重版中。
『甦る相米慎二』木村建哉・中村秀之・藤井仁子編、2011年9月30日刊行。詳細はこちら

【最新受賞作】

第2回表象文化論学会賞『ゴダール的方法』平倉圭著、2010年12月刊。詳細はこちら
第62回読売文学賞(随筆・紀行賞)『斜線の旅』管啓次郎著、2010年1月刊。詳細はこちら

【新刊】
『評伝オーロビンド』ピーター・ヒース著/柄谷凜訳、2011年1月25日刊行。詳細はこちら
『ゴダール的方法平倉圭著、2010年12月刊。詳細はこちら
『ライティング・マシーン──ウィリアム・S・バロウズ旦敬介著、2010年11月刊。詳細はこちら
『シャティーラの四時間』ジャン・ジュネ著/鵜飼哲・梅木達郎訳[ジャン・ジュネ生誕100年]、2010年6月刊。詳細はこちら

【重版出来】

『近代文学の終り──柄谷行人の現在』
柄谷行人著、2010年12月第4刷発行(初版05年11月)、税込2730円。
『小島一郎写真集成』4刷出来→詳細はこちら
『不和あるいは了解なき了解──政治の哲学は可能か』ジャック・ランシエール著/松葉祥一ほか訳、2010年2月第2刷発行(初版05年4月)、税込3885円。詳細はこちら★重版記念(?)、田崎英明氏による書評とブックガイド掲載。こちらこちら
『文字の母たち──Le Voyage Typographique』港千尋著、2009年10月第3刷発行(初版07年3月)、税込3150円。詳細はこちら

【受賞】
第26回写真の町東川賞 飛彈野数右衛門賞
:小島一郎(写真集『小島一郎写真集成』→詳細はこちら
2010年日本写真協会賞新人賞:笹岡啓子
(写真集『PARK CITY』→詳細はこちら
第15回日仏翻訳文学賞笠間直穂子マリー・ンディアイ著『心ふさがれて』の翻訳)→詳細はこちら

【移転のお知らせ】
2009年9月16日より移転いたしました。新住所は「〒101-0051東京都千代田区神田神保町1-40宮嵜ビル2F」です。電話・ファクス番号は変わりません。

※トップに表示するためこのエントリーのみ先の日付にしております。

2011年11月8日火曜日

【特別寄稿】大宮勘一郎「フリードリヒ・キットラー追悼」

“Media and media system lay hid in night.
Gods said: ‘Let Kittler be’ and all was light.”


フリードリヒ・キットラー追悼

大宮勘一郎


10月18日早朝に亡くなったフリードリヒ・キットラーは、そのメディア論研究によってドイツの人文科学の様相を一変させた。1980年代に起こったこの出来事について、もう一度考えてみたい。


今でこそ「メディア論」ないし「メディア学」といった名称は普及しており、大きな書店ならばその分類の一画があるが、かつてメディア論といえば、マスメディアの社会的影響……のような議論を意味していた。これに対してキットラーのいうメディアとは、コミュニケーションの物質的基盤(例えば音声、書字、映像)であり、メディアシステムとは、「ある所与の文化において、有意データのアドレッシング、保存、処理を可能ならしめる技術と制度のネットワーク」と定義され、彼のメディア学はその記述である。


繰り返しになるが、ドイツ・メディア論は、情報工学ではなく、人文科学(ドイツ語で言う精神科学 Geisteswissenschaften)から、しかも社会学でも哲学でもなく、ドイツ文学、すなわちかの地における国文学から生まれた。すなわち、「非‐国民」的でありかつ庶出の学問なのである。キットラーを端緒とするメディア理論は、その後アカデミズムにおける制度的位置づけを変えてゆき、今では多くいわゆる「文化研究」に配属されている。一ディシプリンとして固有の場所を得たという結果のほうから見るなら、文学研究との関係などはむしろ副次的で偶然なものとして現われてしまい、始まりの因縁は忘れられがちであるが、この成立の事情は驚くべきことであり、また必然的なことでもあった。


これを、抑圧されたものの回帰という文脈で語ることはできるだろうか。例えば精神の無媒介的伝達すなわち「理解」の文芸学における専制に抑圧された物質媒体たるメディアが、デジタル技術の進歩によって、無視できぬ力と広がりで再び前景化した、というような。あるいは、作者性の権威とその代行たる大学教育制度の「精神的紐帯」によって予め拘束され、屈従することを強いられてきた若手研究者が遂に反発を始めた、というような。


こうした説明は、むろん可能ではあっても大雑把なものでしかない。「精神」なるものの「物質」に対する、つまりはソフトウェアのハードウェアに対する優位を語ることの胡散臭さを暴き出してしまったその仕事によって、確かに業界保守主義者の憤激を買いはしたものの、敗戦前の1943年生まれで、1960年代後半の学生運動にはやや年長であったキットラーには、そもそも反権威主義のような傾向は稀薄であった。彼はゲーテやハイデガー、加えて古典古代重視のドイツ人文教育など、いわゆる68年世代からは「権威」として標的とされていた人物や制度に決して背を向けることがなく、むしろ多くを負っていた。幾分の留保はあっても、この両者(これにニーチェ、フロイト、マクルーハン、フーコー、そしてルーマンらを加えることができる)に対する彼の敬意と信頼は終生揺るがなかったといえる。また、プログラム言語を語る一方で、ホメロスとピンダロスを持ちえたことの僥倖を語ってやまなかったその古代ギリシャ語への、時に「グレコマニア」と揶揄さえされる傾倒ぶりは有名であった。


しかし、ゲーテの重視は、「国民文学」成立の一歩手前で、そして傍らで、書字が精神へと蒸発し、それが深い霧となって立ちこめてしまうからくりを書き留めているがゆえのことである。ハイデガーからは「技術」を考え抜く思考を学んだのだった。そして、どちらにおいても「ギリシャ」が大きく関わっている。


つまりキットラーは、ドイツ人文主義教育の最後の申し子でありながら、そのスクリプトを読み出し、それに従って歴史を書き換えてしまったのである。例えて言うなら、ニーチェが19世紀教養主義を体現しつつ変成させてしまったことの反復であった。両者とも、おのれを骨の髄から形作っているものを、まさしくその骨の髄において見ようとしたのではなかっただろうか。このことは何も反発に動機づけられたものではなく、ただ単に、知覚されるものと知覚を遮っているものを区別したい、という、あっけないほど単純な、それでいて充足困難な欲求に従ったものだった。未完に終わった大著『音楽と数学』において何にも増して印象的なのは、ギリシャという始まりをメディア史的に書き改めようという意思である。ゆえに、一部ドイツの新聞などで見受けられる、キットラーを最後の教養人などと呼ぶ類の追悼記事には、強い違和感を覚える。既存の枠組みへと片づけてしまえ、という悪意さえそこには感じられる。


キットラーについて想い起されるべきは、彼が何を始めたか、あるいは、彼がどのような始まりを書き留めたかであり、決して何を終わらせたか、ではない。忘れ去られようとしている新たな始まりが、彼の死とともにもう一度書き留められねばならない。そしてこのことが、「国民文学」の研究に残された、数少ない役割のうちで最も重要なものであろう。

(C) Kan'ichiro Omiya 2011

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上記のテクストは本サイトのための書き下ろし原稿。フリードリッヒ・キットラー『メディアシステム1800・1900』大宮勘一郎・石田雄一訳、インスクリプトより刊行予定。

【最新刊/重版中】柄谷行人『「世界史の構造」を読む』


『「世界史の構造」を読む』
柄谷行人=著

「震災後に読む『世界史の構造』」、書き下ろし150枚収録。

『世界史の構造』刊行以降の思想の深化を踏まえ、3.11大震災・原発事故により新たに直面した状況に対応して、いち早く著者自身によって読み直された『世界史の構造』をめぐる思考の軌跡。大澤真幸、苅部直、岡崎乾二郎、奥泉光、島田雅彦、佐藤優、山口二郎、高澤秀次らとの、『世界史の構造』をめぐる徹底討議七本を併録した、決定版『世界史の構造』リーダー。

《私は本を出版した後、それに関してこんなに多くの談話をした経験がない。自著について語るのはいつも億劫であった。しかし、『世界史の構造』の場合はちがっている。多くの依頼があり、私もそれを進んで引き受けた。その理由の一つは、私自身に話したい気持ちがあったからだ。『世界史の構造』では、全体の構成上のバランスをとるために、思索していた多くの事柄を省略するほかなかったのである。だから、私はそこでは十分に論じられなかったことを、座談や講演において語ろうとした。その意味で、本書は『世界史の構造』を補完するものである。》(あとがきより)

2011年10月20日刊行
★第2刷=2011年11月15日出来予定

四六判上製382頁
定価:本体2,400円+税
装幀:間村俊一
写真:港千尋
ISBN978-4-900997-33-2

▼目次

『世界史の構造』梗概

第I部

震災後に読む『世界史の構造』
 I 神の国
 II 哲学の起源
 III アジールと災害ユートピア
 IV 自然と人間
  1 人間と自然の交換関係
  2 エコノミーとエコロジー
  3 マルクスとクラウジウス
  4 グローバリゼーションと環境理論
 V 帝国主義と新自由主義
  1 帝国
  2 ネーション
  3 ファシズム
  4 資本の専制
  5 足尾銅山鉱毒事件

第II部

未来について話をしよう(苅部直との討議)
資本主義の終り、アソシエーショニズムの始まり(大澤真幸、岡崎乾二郎との討議)
生産点闘争から消費者運動へ(高澤秀次、すが秀実との討議)
交換様式論の射程(奥泉光、島田雅彦との討議)
遊動の自由が平等をもたらす(大澤真幸、苅部直、島田裕巳、高澤秀次との討議)
協同組合と宇野経済学(佐藤優との討議)
イソノミア、あるいは民主主義の更新(山口二郎との討議)

あとがき

2011年9月9日金曜日

【新刊告知】歿後10年出版『甦る相米慎二』

10年前の今日、9月9日、早世した稀代の映画作家に捧げる。

──────

『甦る相米慎二』
木村建哉・中村秀之・藤井仁子=編

Shinji Somai
A Film Director in the Japanese Post-Studio Era
Edited by Tatsuya Kimura, Hideyuki Nakamura, and Jinshi Fujii


歿後10年、
相米慎二が再び

映画の魂を呼び覚ます

映画監督・相米慎二(1948−2001)。80−90年代の日本映画界を疾走し多くの観客に深甚な感化を与えながら、21世紀のとば口で逝った相米を、いまここに甦らせる。『セーラー服と機関銃』『ションベン・ライダー』『台風クラブ』『お引越し』ほか13作にわたる相米映画の原点、軌跡、そして未来──そのすべてを収める決定版・相米慎二論。
聞き下ろしスタッフ・インタビュー、黒沢清・篠崎誠対談、さらに相米慎二講演録を特別収録。


《結局個が種を超越できなかったのか、それとも東京上空だか北海道の凍てついた川の向こう岸だかに行ってしまったのかは知らないが、ろくに〈世界〉を見ないまま死んでしまった相米を、今こそみんなして〈世界〉に送り出さなければならない。いや、〈世界〉こそが相米を知らなければならない。今さら知ってどうなるんだよと本人が例の調子ではぐらかしても、どうせ死んでいるのだから構うことはない。〈世界〉がおのれの不明を恥じ、いかに巨大な存在を同時代に見過ごしていたかを知って愕然とする日が、ついそこまで来ているのである。》(本書「序に代えて」より)

2011年9月30日発行

四六版上製448頁
定価:本体3,200円+税
装幀:間村俊一
カバー写真:相米慎二監督、『光る女』ロケ地にて(1985年)、撮影=安保隆
ISBN978-4-900997-32-5

▼目次

藤井仁子 相米慎二と〈世界〉との和解のために──序に代えて

I|相米慎二と映画
濱口竜介 あるかなきか──相米慎二の問い
大澤浄  「過程」を生きる身体──相米映画の子どもたち
筒井武文 映画の虚構性を問う──相米映画の撮影と編集
木村建哉 孤児の映画、親子の映画──相米慎二における性と生のドラマツルギー
中村秀之 生命の切れ端──相米映画における下半身の想像力
藤井仁子 春へ──相米慎二の四季

II|相米慎二の現場
伊地智啓(プロデューサー) あいつの見えない船に乗って
仙元誠三(撮影監督) 「できますかね」が伝染する
紅谷愃一(録音技師) 画に力があるから音が遊べる
熊谷秀夫(照明技師) 『あ、春』の照明の呼吸
榎戸耕史・冨樫森 映画は「相米以前」と「相米以後」に分かれる

III|相米慎二の時代
上野昂志 女優の出立──薬師丸ひろ子一九七八─八三
石田美紀 二つの『雪の断章』──映画と少女文化の接触地帯
岡田秀則 東京下界いらっしゃいませ──〈一九九〇〉偶景
黒沢清・篠崎誠 純粋に映画的であろうとした人

再録|相米慎二の言葉
相米慎二 自作にみる現代映画論──『翔んだカップル』から『東京上空いらっしゃいませ』まで

資料|相米慎二の仕事

木村建哉 終わりのない宿題──本書の「船出」に際して
中村秀之 「映画の暗闇」をとり戻すために──跋に代えて

索引|編者・寄稿者略歴|英文目次

▼Errata

*182頁、下段、11行目:「皮」→「革」
*414頁、下段:「受賞・出品歴」→「受賞歴」

▼イベント・上映企画案内

2011年9月23日(金・祝)〜25日(日)
神戸映画資料館
「歿後10年 甦る相米慎二」
『ラブホテル』『朗読紀行 にっぽんの名作「月山」』上映
http://kobe-eiga.net/program/2011/09/#a001448

2011年9月24日(土)
神戸映画資料館
連続講座「映画批評_新しい映画と観客のために」
第2回「甦る相米慎二」
講師:藤井仁子(映画批評) ゲスト:濱口竜介(映画監督)
http://kobe-eiga.net/event/2011/09/#a001449

2011年10月1日(土)
アテネ・フランセ文化センター
「歿後10年 甦る相米慎二」

15時〜
参考上映『お引越し』(1993年)
17時20分〜
シンポジウム
出演:伊地智啓(映画プロデューサー)、榎戸耕史(映画監督)、奥寺佐渡子(脚本家)、藤井仁子(映画批評家)
http://www.athenee.net/culturalcenter/program/so/somai.html

2011年11月19日(土)〜25日(金)
第12回東京フィルメックス

「相米慎二のすべて〜1980-2001全作品上映〜」

東劇にて開催。前売券発売中。
http://filmex.net/2011/sp2.html

2011年6月30日木曜日

読売新聞に『ゴダール的方法』著者紹介記事掲載



「読売新聞」2011年6月30日付朝刊の文化面に、『ゴダール的方法』著者・平倉圭さんへの取材記事「ゴダールに迫る「手」」が掲載されました。ごく小さなものですが、表象文化論学会賞受賞にあわせての取材です(授賞式は7月2日、京都大学にて)。後半の一部を引用──《映画批評では異例の手法。「絵画を模写するように、編集する「手」のレベルで考えたかった」と意図を語る。(……)イメージによる思考に迫った初の単著が評価され、「言語以外のもので考えるとはどういうことか、理論的な仕事を続けたい」が当面の抱負だ。》

この記事の上には、現在IZU PHOTO MUSEUMで開催されている展覧会「富士幻景──富士にみる日本人の肖像」の紹介記事が掲載。書き手は上記の平倉さんへの取材もしてくださった文化部の前田さん。展覧会初日に開催されたシンポジウムでの倉石信乃、金子隆一両氏の発言も引用されています。ちなみに、図版三つは、左から、玉村康三郎(1880s)、アメリカ軍(1945)、森山大道(1978)!

刊行されたばかりの『photographers' gallery press no.10』も左奥に並べてスナップしましたが、同誌には、「富士幻景」展キュレーターの小原真史さんによる「富士写真小史1853-1945」、そして、平倉圭さんの「時間の泥──ロバート・スミッソン《スパイラル・ジェッティ》」が掲載されています。ほぼ同世代の両氏による最新論考。こちらも是非。

──ゴダールと富士山のjuxtaposition。